カクキューの八丁味噌を愛した著名人

やまもとげんきち
山本源吉

1852年(嘉永5年)~1931年(昭和6年)
愛知県岡崎市出身。林業による村興しの大先覚者。

河辺村(後に河原村→宮崎村→額田町→(現在)岡崎市額田地区)で誕生し、4歳で母親と死別した後は、おじ夫婦に養われました。

1872年(明治5年)20歳で河辺村の村長に任命され、以来、河原村や大代村の戸長などを勤め、公共の仕事や風俗の改善に実績をあげました。1889年(明治22年)には38歳で宮崎村初代村長となり、57歳まで村長職につきました。

明治なかばまで、牛馬の飼料や肥料をとるために宮崎村を中心に山焼きが行われていましたが、周囲の私有地までに燃え移り雑木林にする原因となっていました。そのため源吉は1895年(明治28年)に山焼きを廃止しました。
その他にも山林開発に関する数々の事業を実施し500町歩(=約500ha)以上の植林が行われ、道路も改修されました。
1910年(明治43年)には、長期にわたる森林計画「宮崎村有林事業計画書」を制定しました。

1928年(昭和3年)に村の将来のために植林事業に尽くした功により藍綬褒章を受章しました。

1957年(昭和32年)発行の「郷土にかがやく人々 中巻」(愛知県小中学校長会編)や、2021年令和3年発行の「森とともに生きる 岡崎森林組合100年の歩み」(岡崎森林組合発行)に山本源吉が紹介されています。

当社史料室には、大正・昭和時代に山本源吉から当主(17代久右エ門)宛に送られた年賀状が残っています。
また、大正時代に宮崎村のお客様から当主(17代久右エ門)宛に送られた年賀状には「宮崎村産業の歌」が紹介されています。歌の作者は不明ですが、山本源吉は「村を発展させるには道路が大切である」と常々唱え「林業かぞえ歌」や「村有林かぞえ歌」の歌を作っているため、何らかの関係があると想像されます。

2017年(平成29年)より、八丁味噌の仕込み桶の廃材を使用して大きな太鼓「味噌六太鼓」を作るプロジェクトが始まり、お祭りなどで大勢の人で担ぎ上げられ演奏されています。太鼓の担ぎ棒には、額田地区の山から切り出した立派な杉の木が使われています。

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